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「究極の絵画展」レビュー

Posted : 2019年8月24日
「究極の絵画展」レビュー

作品における主体性の残滓への問題提起と新たな哲学的思考への誘起


現代アートとは概念の破壊と創造である。浜崎健がここに新たな概念の破壊と創造をこの
作品で見事に表現した。
この作品は今まで誰も認識していなかったアートの側面を多方向から呈示している。

ここにあるのはただただ真っ白などこでも買うことのできるキャンバスである。
作家にも、他の誰にも何も手を加えられてなく作家のサインもない。
売られているキャンバスと同じである。
そのキャンバスに作品証明書が付けられたもの。それが作品である。

作品が破損すれば新しくその規格のキャンバスを購入すればそれが作品となる。
作品が劣化すれば新しくその規格のキャンバスを購入すればそれが作品となる。
作品を紛失すれば新しくその規格のキャンバスを購入すればそれが作品となる。
すべてにおいて作品証明書を所有していればである。
他人に譲るときは作品証明書さえ譲渡すれば自分が所有していた真っ白なキャンバスは作品でなくなり、ただの真っ白な何も描かれていないキャンバスへと戻る。

これは現代アートマーケットへの痛烈な皮肉であると同時に新たな作品の形態であり
作品の再現性、普遍性を新たな次元で創造したということになる。

まず、著名な作家は現代アートマーケットでは作品証明書がないとほとんど作品が流通しない。
それは複製技術が進化し真贋の保証を作品だけではできなくなったことが原因にある。
ギャラリー、もしくは作家によって発行された作品証明書が作品の真贋を保証する。
これからますますその傾向は強くなっていくだろう。
時には作品証明書があれば数百万、数千万する作品でも、無ければ何物にもなり得ない。
作品はそこにあり何も変わらず存在しているにもかかわらずである。
作品証明書が無いということは貨幣的価値、それ以上に作品自体の存在価値すら脅かす。
言い換えれば作品証明書がなければ作品は作品として成立しない。
昨今において作品証明書とは価値の判断基準、アートそのものの価値ともいえる。

ではこの作品においてはどうだろうか。
究極の絵画はどこでも買える真っ白なキャンバス作品である。真贋の問題でもなく普通に販売されているキャンバスなのだ。果たしてそれは作品となりうるか。

しかしそれは作品証明書がなければそれ自体の貨幣的価値、存在価値が脅かされる。
その他の作品と何ら変わらない。
繰り返すが現代アートマーケットでは作品証明書なしでは作品は作品として成立しない。本質的にはキャンバスに何が描かれていようが問題ではない。
ということは何も描かれていなくても問題ではないということである。
では作品の主体性はどこへ行ったのか。

この作品で重要なのは作品証明書ではなく作品証明書を重視する現代アートマーケットへのシニカルな問題提起である。

網膜的にも概念的にも無駄なものがそぎ落とされたこの作品は究極にミニマムであると同時に究極にコンセプチュアルである。
作家はこれを究極の絵画と名付けた。