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IN-SLEEP DRAWING(寝画)展に寄せて

Posted : 2015年6月27日
IN-SLEEP DRAWING(寝画)展に寄せて

text : Kenichi Yagi

私は美術及び芸術に決して造詣は深くありません。門外漢の身勝手な見方ですので、ご理解頂ければ幸いです。

浜崎健が彼の代表的パフォーマンス・お茶会を始めてから、日本文化の新たな表現を試みていることは、皆さまもご存知の通りです。主人と客、数寄屋の空間が三位一体となって一期一会の心の交流を大事にする。金融経済や欧米の合理主義から一歩引いて、「まぁ、お茶でも飲んで」と愚かであろう「美しさ」とは何かを問い続けてきました。この愚かさというのは、理屈ばかりではない、ゆとりや遊び心つまりヒュマニティーを大切するということです。

これまでの展覧会でも、決して押しつけないように観客が自らのイマジネーションを働かせるように、作り過ぎないことを意識した作品を発表してきました。Simplism(シンプリズム)という彼の定義です。そして、IN-FLIGHT PAINTINGで世界中を飛び回り、彼の中で一つの結晶となって表れてきたのが、今回のIN-SLEEP DRAWING(寝画)となります。IFPで彼は、グローバルに多文化を見ていきます。それは、無意識に身体にしみ込んでいきます。そこで、彼には幾つかの確信があったに違いありません。一つは日本的な情緒の重要性。もう一つは小さく、瀟洒であることです。

日本文化を意識した作品にはデニム地に風神・雷神や鳥獣戯画を描いた頃からジャポニズムの表出は顕著になってきます。パリから昨年8月に戻ってきた同作品を展示したのも、私個人では何か今展覧会のプレビューのように思えています。

寝画は、ドローイングの線だけで、ほとんどが当然、余白となります。日本美術にはその余白をいかに使うかが最も重要です。欧米ではカンバスいっぱいに100%作りこみますが。この余白を残すことで、観客はその作品の世界観に入っていけるのです。例えば、日本美術の最高峰と呼ばれる長谷川等伯の松林図は、水墨画という制約と、余白を大胆に取り入れることで、観るものは松林に入って行っているかのような不思議な感覚を得ます。また、現代美術に於いても、サイ・トゥンブリの作品は、決して作りこまない。それ故に、灰汁が抜けた普遍的な美を追求した作品として格調高く感じられます。

寝画はカンバス作品に、浜崎の夢日記が重ねられます。これは、俵屋宗達が描いた銀箔の鶴の絵に本阿弥光悦が短歌を書いた「三十六歌仙」の技法に通じるところがあります。今年で琳派生誕400年となりますが、三十六歌仙が発表された当時は、江戸初期になります。国家の中心は江戸になりますが、文化の中心は京であると武家文化と一線を画して、町衆たちは王朝文化をヒントにしながら流行を取り入れて、琳派が確立していきます。 浜崎が、大阪での発表に重きを置き、しかも、その時々のストリートの流行を取り入れながら作品に仕上げるのも共通するところです。

今、著名な現代美術家が古典を題材に新たな表現を試みています。当然、賛否理両論が飛び交い、伝統と革新の調和とはとても難しいものです。浜崎は、これに挑戦するなら敢えて無策の策を取ったように思えます。

彼の中に流れる哲学には老荘、道教に見られる「道(タオ)」の精神があります。自然こそが全てであり、人間の浅知恵である合理主義では、物事は通らないことを。今、彼は川の流れのように流動的に動いています。自然の調和に対して、人間などは不完全なものであるなら、身を任せて流れてみようかと。そして、死とは自然に帰ることだと。

どうぞ、皆さまのイマジネーションと寝画との一期一会の対話をお楽しみください。

八木健一